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講義「社会学入門」期末レポート2011-7

「自殺者の友人には罰金を科す制度」の是非

総合教育部1年 中川 紘一

 


 

はじめに

 警察庁の統計によると平成22年における自殺者の総数は3 1 , 6 9 0[1]である。日本における自殺者数は平成10年より3万人を下回ることがなく、それ以前においても増減を繰り返しながらも大幅に増加してきた。日本政府は自殺対策基本法に基づき平成19年より「自殺対策白書」を毎年度国会に提出するとともに、様々な角度から自殺対策に取り組んできた。しかしながら依然として、自殺者の減少する見込みすらないのが現状である。そこで、私が突拍子もなく思いついた「自殺者の友人には罰金を科す制度」について考えてみようと思う。かなり断片的ではあるが、いろいろな角度からみていくことにする。

 

自殺と尊厳死

 冒頭で自殺者数について記したが、誰もが自殺しない社会、自殺者ゼロの社会が最も良いのだろうか。おそらく私たちの社会では、自らの意志によって自らの生に意味を与えることが出来る者が自殺することを倫理的によくないこととするのが一般的である。心身の一部のみが不自由な者が自殺することは防ぐべきことであると。しかし、『自由の社会学』(橋本努著・NTT出版)における、映画『海を飛ぶ夢』で再現されたラモンについての議論はどうであろうか。25歳のときに海で事故に遭い、首から下の全身が麻痺し、他人の手がなければ生き続けることができなくなったラモンは、尊厳死をはかること、およびその協力を得ることを社会的に認めるよう活動した。橋本氏は自ら示した「『卓越(誇り)』原理」[2]に照らし合わせ、ラモンにとって「自殺とはすなわち、自らの決断で自らの運命を選び取るという自由の積極的な行使である」、「自殺以外に自らの魂を崇高なものとして実現する方法がない」とする。これに対し、あえて反論してみようと思う。

 まず、ラモンが自ら尊厳死を求めることが出来た点が気になるのである。つまり、自らの意志を社会全体にまで訴えることができたということである。もし、ラモンが声でも文字でも自らの意志を、言葉を媒介にして社会に発信することに自らの生の意味を感じるという人間であればどうであろうか。確かに、ラモンは介護が必要な程度は一般的に考えてもかなり大きいが、私たち、あるいは心身の一部が不自由な者でも自分のできる範囲のことに自分の生の意味を見出すしかないのではないか。そう考えると、ラモンが言葉を用いて何かを表現することに自らの生の意義を見出す可能性がなかったとは言い切れない。

 あるいは、空想的かもしれないがBMI技術の発達に希望を持つなどというのはどうだろうか。BMI技術とは、人の脳波を計測、解析することによって人の意思を電気信号として機械に入力し、機械を操作するという技術であり、未だ実用化はされていないが研究・開発が進められている。これによって、身体に麻痺を持つ人や、身体の一部を失った人が、その部位の機能をBMI技術の採用されたロボットに補ってもらうことが可能になるとされている。このような技術の発展、あるいは発展の可能性がラモンのような人々に希望を与えたりはしないだろうか。

 このように考えれば、ラモンが自殺を死ぬわずか直前に後悔する可能性や、自分もある範囲においては自由を行使することができる可能性があったと考えることができるだろう。

 

「他者危害原理」と干渉

 J.S.ミルの「他者危害原理」(「文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある」[3])からすると、例えば、自分がバンドでドラムを叩いていた場合、もし死んでしまったらリズム楽器のない骨抜きバンドを生み出すという迷惑を、存在すればだが、ファンに与えるかもしれない。あるいは他のメンバーは、取って代わるドラム叩きを探さなければならない。もしくは、いかに他者に迷惑をかけない自殺方法を実行したとしても、少なくとも他者に喪失感を与えるという広い意味での危害を他者に加えることになる。しかし、ミルは「社会が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして」の原理を示しているわけであるから、ここでの議論(「自殺者の友人には罰金を科す制度」の是非)は法律上の刑罰の対象が自殺者当人ではなく、自殺者の友人であるからミルの原理を適応することはできない。また、山田卓生著『私事と自己決定』(日本評論社)には、

「私事」ないし「私的な事柄」(private affairs)とは何をいうのか、が問題になろう。たとえば、自殺は、私的な事柄ではあるが、まわりの人々に諸々の影響をおよぼすという意味では「私事」とはいいきれない。また、「他人に害をおよぼさない」ということも、必ずしも明確ではない。( 略 )その意味では、社会においては、他人に害をおよぼさない私的な事柄は、存在しないともいえる。しかし、人を傷つけるとか、人のものを盗む、といったことに比較すれば、登山も、喫煙も、自殺も、私的な事柄であるといってよいだろう。

とあるが、自殺は私的な事柄であるとすると、友人の自殺に干渉するためには、「自殺=悪」とする理論が必要になる。

 

自己決定のタイミング

 警察庁の統計によると、平成22年における自殺者の原因・動機と人数は健康問題(15,802人)、経済・生活問題(7,438人)、家庭問題(4,497人)、勤務問題(2,590人)、男女問題(1,103人)、学校問題(371人)、その他(1,533人)[4]となっている。本来であればもっと詳細に見ていく必要があるが、(希死念慮・自殺念慮が衝動的に生じたとしても)これらの原因・動機自体は数か月から数年におよぶもの、追い込まれた上での死だと考えられる。したがって、仮に私たちは積極的にそのような状況におかれた友人に干渉しなければならない(すなわち自殺者の友人には罰金が課される)、として、自殺念慮が未だ生じていないが、原因・動機は存在している間にそれを行うことを義務とするのか、自殺念慮が生じてからの義務にするのか考えなければならない。しかし、容易に推測できるが、死んでしまった人の自殺念慮がいつ生じたかなど証明できる例はないだろう。一方、原因・動機が存在している間に干渉すべき、とすれば、罰金の取られたくない者は友人が抱える問題に積極的に協力するかもしれない。したがって、かなりゆがんだ形ではあるが、友人に関心を持つものが増えて人間関係が濃密になる可能性もある。

 

金銭に還元されてしまうこと

 今、あなたの友人は20年間務めた会社から解雇され、家族を養うことができなくなったとする。友人が自殺した場合には、生前から掛けていた生命保険により家族は5,000万円を受け取ることが出来、どうやら子供たちが自立するまでなんとかやっていけそうだ、と友人は話す。そこで、「自殺者の友人には罰金を科す制度」(法律)が昨日で施行になったことを思い出したあなた。もしここで、その友人に「まあ、がんばれよ。」などと軽くあしらうと彼は数日の間に自殺してしまうことが強く予想されるが、その場合には罰金が待っている。あるいは、自殺を断念させようとしようにも、彼の次の仕事が決まるまでのしばらくの間、金銭的な支援をしなくてはならない。そうしないと彼はすぐに死んでしまう。このような場合、あなたに「自殺=悪」という道徳的な認識があれば当面の金銭的な援助をしなければならないことになるが、そうでなければ、あなたは友人が自殺してしまった場合の罰金と、彼への金銭的な援助とを比較して、より金額の負担の小さいほうを選択するだろう。このようなケースでは、各人の財力によってその友人の生死が決まるということになりかねない。さすがにこれは望ましいとは言えないだろう。

 

「自殺者の友人には罰金を科す制度」の結論

 以上のように考えを巡らせていくと、自殺という行為はかなり自己完結的である上、個人の内面的な過程を詳細に知ることは難しいため、「自殺者の友人には罰金を科す制度」は実際的でない。言い換えれば、自由とか他者との利害関係の調整といったことからはこの制度は導き出せないと言えるだろう。しかし、この問は移植医療における尊厳死で議論されるような「心臓死だけが死ではないのか」という議論に加え、ラモンの場合のように「死ぬことが人に尊厳を与える」可能性について考える機会を与えてくれた。

 

おわりに

 私は個人的には友人(ラモンであっても)が生命を断とうとしている、あるいはそれほど重大な悩みを抱えているときには、積極的に干渉すべきだと考えている。そう考えているといか、そうしたいと思っている。これは当たり前かもしれないが、自分が悲しい思いをするのが嫌だからである。このような考えに賛同する人はたぶんたくさん存在する。しかし、今回複数の立場から、なるべく理論的に結論を導こうとすると、なぜか自分の考えにはたどり着かないのである。それは、もしかしたら、私には友人に干渉する、しないの自由が与えられていて、それこそ友人が死んでしまって迷惑を被るのが自分自身であるから、その自由を制限する権利を私しか持っていないから、と考えることもできる。

今までは、「無条件に」何かを是、あるいは非とするような立場、主義は危ないと思っていたが、自分の考えを理論的に導けないなら自分もそのような立場にあるのだと思った。しかし、危ないなどとは思わない。人の感情を理論にしたり、法律にしたりすることは少ないのかもしれない。

 

参考文献

@橋本努著    自由の社会学(NTT出版・2010年)

A河野哲也著   善悪は実在するか(講談社選書メチエ・2007年)

B加藤尚武著   応用倫理学のすすめ(丸善ライブラリー・1994年)

C加藤尚武著   脳死・クローン・遺伝子治療―バイオエシックスの練習問題(PHP新書・1999年)

Dミル著     自由論(岩波文庫・1971年)

E斉藤貴男著   強いられる死 自殺者三万人超の実相(角川学芸出版・2009年)

Fデュルケーム著

宮島喬訳     自殺論(中公文庫・1985年)

高橋祥友

G竹島正編集    自殺予防の実際(永井書店・2009年)

H三井誠

曽根威彦

瀬川晃編     入門刑事学 第四版(有斐閣・2009年)

I佐久間修

高橋則夫

宇藤崇著     いちばんやさしい刑事法入門 第二版(有斐閣アルマ・2007年)

J戸梶圭太著   自殺自由法(中公文庫・2007年)

K雨宮処凛著   自殺のコスト(太田出版・2002年)

Lアルヴァレズ著

早乙女忠訳    自殺の研究(新潮選書・1974年)

M山田卓生著   私事と自己決定(日本評論社・1987年)

Nハンナ・アレント著

ジェローム・コーン編

中山元訳     責任と判断(筑摩書房・2007年)

O加賀乙彦著   悪魔のささやき(集英社新書・2006年)

P立山龍彦著   新版自己決定権と死ぬ権利(東海大学出版会・2002年)

Qヴァンサン・アンベール著

山本知子訳   僕に死ぬ権利をください(NHK出版・2004年)

R高橋祥友著   自殺の心理学(講談社現代新書・1997年)

S鶴見済著    完全自殺マニュアル(太田出版・1993年)

河西千秋著   自殺予防学(新潮選書・2009

 

 

 



[1]警察庁生活安全局生活安全企画課『平成2 2年中における自殺の概要資料』より

[2]橋本氏は同書にて、自由の「『卓越(誇り)』原理」を「自由は人間の卓越した実践に道をひらくことができる」原理としている。自由は「各人に、最低限の尊厳を与え」、それは「相互承認の実践を通じて、人々のあいだに『誇り(プライド=自尊心)』の感情を産み育て」、「終極的には、何らかの卓越した美質へと人々を向かわせる」、「『尊厳→誇り→卓越』という価値の連鎖が存在する」としている。

[3]J.S.ミル著・塩尻公明、木村健康訳『自由論』(岩波文庫)より。

[4]警察庁生活安全局生活安全企画課『平成2 2年中における自殺の概要資料』より。ただし、「平成19年に自殺統計原票を改正し、遺書等の自殺を裏付ける資料により明らかに推定できる原因・動機を自殺者一人につき3つまで計上することとしたため、原因・動機特定者の原因・動機別の和と原因・動機特定者の和(23,572人)とは一致しない」とある。